階段

暗い廊下の先に、ひっそりとした階段が続いていた。階段は、古びた木の板でできていて、足を踏み入れるたびにきしむ音が耳に響く。不安な気持ちが胸を締めつけ、思わず振り返るが、後ろにはただ無機質な階段が続いているだけだった。どれほどの時間、ここを登り続けているのだろうか。髪をかきあげると、冷たい汗が額を伝う。

「もうやめたい……」

そう思った瞬間、足元が滑りドキリとする。自分の足がどこに向かっているのか、なぜ自分がこの階段を登り続けているのか、どうして、何故、と混乱が襲う。階段はただ上へと続いている。まるで果てしない旅路のように。

「どうして、こんな事に……」

ぼんやりと記憶の片隅に残る言葉が浮かぶ。私の名前は美香。友人のさやかと一緒にこの館を訪れたはずだった。彼女はいつも元気で、明るい笑顔が印象的で。だけど今はどこにいるのか分からない。さやかは私の後ろをついてきていると思っていたのに、いつの間にか姿を消してしまった。

私は再び階段を登る。息が苦しくなり、鼓動が早まる。階段の先にはどんな景色が待っているのだろうか。恐怖と期待が入り混じり、胸が高鳴る。しかし、次第にその期待は不安に変わっていく。あまりにも長すぎる登りは、まるで何かに取り憑かれているかのようだった。

「さやか、どこにいるの!」

叫び声が空に消えていく。耳に響くのは、ただ自分の声だけ。静寂が周りを包み込み、恐怖がじわじわと迫ってくる。階段の先にある何かが、自分を待っている気がしてならない。

ふと気づく。
階段の両側には、薄暗い壁があり、そこには何かの影が映っている。振り向くと影は消えた。美香はその影を追おうとしたが、すぐに振り返り、再び階段を登り始めた。後ろから何かが迫ってくるような気配がする。心のどこかで、自分は誰かに引き摺り落とされるのではないかと感じていた。

「お願い、さやか、返事して!」

そう叫びながら、さらに階段を登る。周りは暗闇に包まれ、何も見えない。壁に付いている、大して役に立たない薄暗い灯だけがポツポツと足元を薄らと照らしている。
美香は自分の存在を確かめるために、もう一度声を上げた。やはりと言うか、今回も声は闇に溶けていく。恐怖が心を締め付け、冷たい風が吹き抜ける。まるで誰かが自分を見ているかのような感覚に襲われた。

「もう、やめて……」

美香は足を止め、深呼吸をした。何かが間違っている。何故、こんなところにいるのか。階段の上には何が待っているのか、答えが欲しかった。しかし、得られるのは無情な静寂だけだった。

再び一歩ずつ登り続ける。すると、突然、背後から重い音が響く。振り返ると、階段に何かが転がってきた。それは、さやかの持っていたバッグだった。バッグはぐちゃぐちゃに潰れ、中から彼女の写真が飛び出していた。

「さやか……」

美香は心臓が締め付けられる思いで、バッグを拾い上げる。彼女の笑顔が映った写真を見つめながら、恐怖が一気に押し寄せてくる。

「さやか、助けて!」

再び声を上げた。
返事を待たずに階段を踊るように駆け上がった。暗闇が迫り、何かが後ろから追いかけてくるような気がした。階段は終わりを見せず、ただただ続いている。もう一度、背後を振り返ると、暗闇から浮かび上がる影が見えた。それは、さやかの姿に似ていたが、目は空虚で、笑顔はどこか狂気を帯びていた。

「美香、待ってよ……」

その声はさやかの声に似ているが何かが違う。美香は恐怖に震えながら、階段をさらに登った。影は近づいてくる。何かが彼女を引き裂こうとしているのだ。

「逃げなきゃ……」

美香は全力で駆け上がる。だが、階段は終わらない。背後からの声は、だんだんと大きくなり、耳をつんざくような笑い声へと変わっていく。美香は心の中で何かが壊れていくのを感じた。

ついに階段の先に薄明かりが見えた。美香はその明かりに向かって駆け出した。しかしその瞬間、足がつまずき、彼女は階段から落ちた。冷たい空気が体を包み込み、暗闇の中に吸い込まれていく。

そして、意識が遠のく中で彼女の耳元にさやかの声が響いた。

「美香、待って……」

目が覚めると、そこは再びあの階段の下だった。目の前にはさやかが立っている。彼女は微笑んでいて、まるで何事もなかったかのように見えた。美香の心は安堵と恐怖で揺れ動く。

「さやか!どこに行ってたの?」

「何を言ってるの?私、ここにいたよ?
ねぇ、美香、もう一度登ってみようよ。」

美香は何も言えなかった。階段の先には、またあの暗闇が待っている。彼女は、自分が何を選ぶべきか分からなかった。さやかの微笑みは、どこか不気味で、心の奥に潜む疑念が彼女を包んでいた。

果たして、彼女は再び階段を登るのか。それとも、このまま立ち尽くすのか。美香は、迷いに満ちた心を抱え、階段を見つめていた。暗闇の向こうには、何が待っているのか。それを知る勇気が、彼女にはまだなかった。

瞳の中にあるものは

薄暗いアパートの一室。壁は黄色く剥がれかけ、冷たい空気が漂っている。女の名は美咲。彼女は一人、夜を待っている。窓の外から漏れる月明かりが、彼女の顔をほんのりと照らし出す。彼女の目は大きく見開かれ、まるで何かを欲しがっているかのように見えた。

「そろそろ時間だわ…」
美咲は小さく呟く。
そう呟いた瞬間、心臓が鼓動を止めたかのように感じた。男が来るのだ。彼の名は拓也。彼女の愛する人。しかし、彼の愛はただの妄執に過ぎないことを、美咲は薄々感じていた。

彼は美咲のことを何度も求めた。だが、彼女にはその愛が重荷でしかなかった。拓也の求める愛は、彼女の心を締め付ける、まるで麻薬のようだった。美咲はそのことを理解していたが、彼の瞳を見つめていると、ついその闇に引き込まれてしまうのだ。

「どうして私をこんなに欲しがるの…」
美咲は自問自答した。彼女の心の奥底には、拓也に対する不安と恐れが渦巻いている。愛していたはずなのに。確かに愛されていたはずなのに。どうして、何故、と終わらない疑問がグルグルと自分の中で渦巻いている。脳裏に描いた彼の瞳は、まるで彼女の存在の全てを奪うかのように暗い空間を飲み込んでいく。
ただいつもの彼を思い出しただけなのに。

その夜、拓也が現れた。彼はいつものように無邪気な笑顔を浮かべていた。しかしその笑顔の裏には、彼女を所有したいという狂気が潜んでいる。美咲はそのことを感じ取っていたが、言葉にはできなかった。

「美咲、会いたかったよ」
と拓也が言う。その言葉は甘い蜜のように美咲の耳に響くが、同時に楔のように彼女の心を縛っていく。彼女はその言葉に応えることができず、ただ黙って彼の目を見つめ返す。

「どうしたの、黙ったままで…」
拓也の声が少し不安そうに響く。そう言われても彼女は動けない。彼の存在が、その瞳が彼女の心の中に潜む恐怖を増幅させている。だって目が逸らせないのだ。怖いと思うのに。

その時、美咲は気づいた。拓也の目はただ自分を求めるものではなく、彼女の心を奪うためのものなのでは?と。彼女の心の奥にあるこの恐怖を知っていて、それを利用しようとしている。彼女はそのことに気づき、抗うことにした。

「もう、やめて…」
美咲は声を振り絞った。小さく、ともすれば聞き逃してしまうほどの声でしかなかったが。それでも自分を大きく奮い立たせる声だったのだ。ほんの一瞬だったが、緊張に満ちている。拓也は驚いたように目を大きく見開く。
「何を言ってるんだ、美咲。僕は君を愛しているだけだよ。」

「愛しているだけ…?」
彼女の心には疑問が浮かぶ。
果たしてそれは愛なのか?
美咲はその問いに対する答えを見つけられず、ただ彼を見つめ返す。

拓也の笑顔が徐々に消え、代わりにその瞳に闇が広がっていく。
「…君は僕のものだ、美咲。どんなことがあっても、僕が君を守る。だから、逃げないで。」

その言葉が、まるで彼女の心に鋭い釘を打ち込むように響く。美咲は恐怖で身体が震える。どうして。彼の愛は彼女を閉じ込める檻のようで、決して自由を与えてはくれない。彼女はそのことを理解し、心の底から恐れを抱く。

「お願い、拓也。もうやめて…」
彼女の声はか細く、まるで消え入りそうだ。しかしその声は拓也には届かない。いや聞こえてはいるのだろう。ただ聞こえないふりを、知らないふりをしているのだ。深い深い闇を湛えたその瞳が、すでに彼女の心を飲み込む準備を整えている。

拓也が近づいてくるのを感じる。
拓也の瞳の中に潜む闇。

どうして。
どうしてどうしてどうして。
愛し合っていた、それだけだったはずなのに。

トンネル

彼女の名は美咲。
薄暗いトンネルの中で、彼女はただ一人、足音が反響する音に耳を澄ませていた。トンネルの入り口は彼女の背後にあり、出口は前方にある光の点。まるでその光が彼女を誘うかのように、彼女はその道を進むことを決めた。しかし、歩き進むにつれ、心の奥に不安が芽生えてきた。なぜなら、いつまで歩いても出口に辿り着かないからだ。

「どうなってるの…?」

小さな声が自分の耳に響く。
彼女は自分の声に驚いた。周囲は静まり返り、トンネルの壁に反響するその声が、まるで彼女自身の心の声のように感じられた。美咲は息を深く吸い込み、再び進み始めた。足元には濡れた石が転がっていて、踏み外すと滑りそうだ。冷たい空気が肌を刺し、背筋に寒気が走る。

「大丈夫…大丈夫…」

彼女は自分に言い聞かせた。美咲の頭の中には、友人たちとの約束が浮かんでいた。彼女たちと一緒に心霊スポットを訪れたのだ。トンネルの中に入ると、いつもは騒がしい彼女たちも静かになってしまった。みんな怖がっているのがわかる。美咲もそんな雰囲気に飲まれ、恐れを感じ始めていた。

「これ、ただのトンネルだよね…?」

自分に問いかけるが、答えは返ってこない。ただトンネルの奥から、微かに声が聞こえる。まるで誰かが彼女を呼んでいるような気がした。
心臓が高鳴る。
声が近づいてくる。
美咲は恐怖を押し殺し、さらに前へ進むことにした。

「誰かいるの?」

声を張り上げると、声が反響して返ってきた。
「いるの」「いるの」「いるの」
不気味なほどに繰り返される。周囲の静けさが一層際立つ。美咲は自分の声が、自分を脅かす何かのように思えた。彼女は心細くなり、後ろを振り返る。しかし、そこには何もなかった。入り口は遠く、暗闇が彼女を包み込む。

「どうして…?皆、何処に行っちゃったの…?」

その場でぐるりと一周して見渡してみるも、やはり自分一人しかいない。

「どうしよう…」

彼女は一歩進むこともできず、ただその場に立ち尽くしていた。何かが彼女を引き留めている。恐怖が彼女の体を硬直させ、思考を鈍らせた。その時、ふと目の前に光が瞬き、彼女はその方向に目を凝らした。

「出口…?」

光の先には、彼女の知っている景色が広がっているように感じた。だが、その光はすぐに消えてしまい、再びトンネルの暗闇が彼女を包んだ。美咲は混乱し、恐怖で心が押しつぶされそうになった。

「お願い、誰か助けて…」

彼女の声は虚しく響き、再び反響する。
「助けて」「助けて」「助けて」
その声は、彼女の心の内を反映しているかのように感じた。美咲は自分の無力さを思い知る。彼女は出口を見失っていた。

再びあの光が見えた。
今度は少し近づいているように感じた。迷う気持ちを振り切り、彼女は光の方へ駆け出した。足音がトンネルの壁に反響し、自分の存在を確かめるかのように。その音がどこまでも続く道を駆け抜ける。

「光…光…!」

美咲はその光が自分を救ってくれると信じた。声がより大きく、より近く感じられる。彼女の心は期待と恐怖の交錯の中で高鳴り、足元の石を蹴飛ばしながら進んだ。

だが、光は彼女の前で消え、再び暗闇が彼女を包み込んだ。その瞬間、彼女の後ろで何かが動いた気配がした。振り返ると、暗闇の中から無数の目が彼女を見つめていた。美咲は恐怖で息を呑み、その場から逃げ出そうとした。

「いやだ、いやだ、助けて!」

彼女は叫びながら、また走り出そうとした。しかし、暗闇の中から声が聞こえた。
「戻れ」「戻れ」「戻れ」
その声は彼女の心を侵食し、彼女はさらに恐怖を募らせた。

「私は一人じゃない…!そう、そうだ。だって皆がいるはずじゃない!」

美咲は自分に言い聞かせ、自分の心を奮い立たせた。手が震え、心臓がバクバクと音を立てるが、彼女は再び足を踏み出した。何も見えない真っ暗なトンネルの中で、彼女は出口を探し続ける。

声はますます近づいてきた。彼女はもう一度、振り返ることにした。そこには、今度こそ彼女の友人たちの姿があった。彼女は目をこすり、信じられない思いで友人たちを見つめた。

「美咲、早く来て!」

友人たちは彼女を呼んでいる。彼女は心の底からの安心感が込み上げてきた。美咲は友人たちの元へ駆け寄ろうとしたが、トンネルの出口は遠く、友人たちはその光の中に消えていく。

「待って!」

美咲は叫んだ。だが、その声はトンネルの中で反響し、友人たちには届かない。彼女は出口を目指し、再び走り出す。しかし、何かが後ろから来ている気がして何度も何度も振り返る。そしてまた前に向き直るそのたびに、彼女の友人たちは一人ずつ姿を消していた。
やがて、全員が消えてしまった。

「ああ…」

美咲は絶望の中で膝をついた。彼女の周りには、ただの暗闇と、反響する声だけが残った。彼女は一人ぼっちになってしまった。出口は見えない。彼女は暗闇の中で、ただ自分の声を聞き続けるしかなかった。

「どうして…どうして私はここにいるの…?」

その問いかけは、トンネルの壁に反響し、彼女の心に響いてきた。彼女は何もかもを失ったように感じた。出口を探していたはずなのに、彼女はいつの間にか自分自身を失ってしまった。

このトンネルは、ただのトンネルじゃなかった。
どうしたら、いつになったら、ここから出られるのだろうか…。

普通、とは?

ある晩、私は友人と共に古い廃屋の前に立っていた。
何故そんな所にいるのかと言うと、友人が言うには
「ここには何か不思議なものがあるらしいんだ。」
との事だ。友人があまりにも興奮気味に続けるから、私もつい興味を持ってしまった。それで今、ここにいると言う訳だ。
取り敢えず周りを見回す。廃屋の中は当然と言えば当然だが暗く、何処からか漏れている薄い光が差し込む程度だった。私たちは懐中電灯を手に持ち、廃屋の中を探検しようと中に忍び込んだ。


廃屋の中はほこりっぽく、壁には剥がれかかった壁紙が残っていた。床は木の板がギシギシと音を立てている。私たちは足元に注意しながら進んでいった。


不思議な物とは何だろう。
そんな事を考えながら足を進めていると、友人が突然私の肩を掴んで驚いたように言った。

「おい、見てみろ。」

友人が見ているその視線の先を追えば、驚くべき光景が。廃屋の壁には、はっきりとした自分達のモノではない何かの影が映し出されていたのだ。

私は友人に尋ねた。

「何だこれは?何かが映っているのか?」

だが、それらしい物は見当たらない。一体、これは何なのか。友人は興奮気味に答えた。

「それは誰かが忘れていった影だよ。」

私はびっくりして友人を見た。

「何だって?忘れていった影?何をおかしな事を言ってるんだ?」

そう言う私に友人は考え込んだように言った。 

「よくは知らないけど、この廃屋には昔、悲しい出来事があったらしいんだ。その出来事が何か関係しているのかもしれない。」

意味が解らない。
それが何だって忘れられた影とやらになるのか。
私たちはその影をじっと見つめていた。友人と私では考えていた事は恐らく違うだろうが。

それにしても…。
そのう影は透明な存在ではなく、はっきりとした形状を持っていた。それは人の姿に似ていたが、微かに歪んでいるようにも見える。

私は友人に尋ねた。
「君は本当にその影が忘れられた影?とやらに見えるのか?私には全く見えないんだが。」
大体、普通は影なんぞ忘れられるようなもんじゃないだろう。そう言う私に友人は困ったように言った。
 
「え?普通は見えない?
何を言ってるんだ?
君こそ、何かおかしいんじゃないか?」

私は友人の言葉に戸惑いながらも、もう一度影を見つめた。しかし、私にはそんなモノには見えない。友人と私の間には、見えるモノと見えないモノの境界線があるようだった。
そう見えない私がおかしいのか?
そんなはずは無いだろう!…ないよな?
だが友人は私の方こそ何を言っているのか、と言いた気な、それでいて不思議そうに私を見た後、再び影を見つめた。
「この影は何かを伝えたいのかもしれない。私たちならその意図を理解できるかもしれない。」

私もこれが何なのか気になるのは確かなので、その後も友人と共にその廃屋に何度も足を運び、影と向き合った。何日も通ううちに私たちは徐々にその存在を感じることができるようになり、その影が何を伝えたいのかについて深く考え始めるようになった。

しかし、私たちがその真実に迫ることはできなかった。ある日、廃屋の中で私たちは迷い、途方に暮れたのだ。影が何を伝えたいのか、その謎は今も解き明かされることなく、私たちは廃屋の中で迷い続けている。

かくれんぼ?

ある晩、私は家に一人でいた。家族は皆、それぞれ用があると言って出かけていたのだ。特にする事もなかったので私は部屋で本を読んでいた。いつになく外の景色が暗く感じて、いっそ不自然なほどに静まり返っていた。何だか普段とは違う、そんな違和感を感じていた。そんな中、突然、部屋の中に不気味な声が響き渡った。

「もう良いかい?」

私は驚き、声の主を探そうと部屋を見回したが、当然誰もいない。

「もう良いかい?」

声はますます大きくなり、私の耳に響き渡る。
一体誰!?恐怖が私の心を包み込んだ。

「もう良いかい?」

私の恐怖心など知らぬとばかりに何度も同じセリフをを問いかけられた。しかし、私には答える余裕がなかった。

「もう良いかい?」

思わず私は部屋を飛び出し、外へと逃げ出した。しかし声は追いかけてきて、どこからともなく聞こえてくる。

「もう良いかい?」

私は必死に逃げながら、声の主に何度も「まだ」だと答えようとした。しかし、声は止まることなく続いている。

「もう良いかい?」

走っても走っても声は追いかけてくる。どれだけ走ったのか、もう限界だと座り込んでしまった。上からも下からも横からも後ろからも声が聞こえてくる。この声の恐怖に支配されてしまった私は、もう自分自身を鼓舞することはできなかった。

そして、声の主が現れた。
それは私の前に立ちはだかり…

「ねぇ?もう良いかい?」

つるりとした顔に裂けんばかりの大きな口をした、その得体の知れない声の主は、冷笑しながら私を見下ろす。もう体力も精神力も尽きていた私はなすすべもなく、その存在に従うしかなかった。

そして私は声の主と共に闇の中へと消えていった。
私という存在は永遠に失われ、ただ声だけが残された。

「ねぇ、もう良いって言ってよぉ!」

そこに在る事の証明

ある日突然、周囲の人々が彼女を無視し始めたのです。彼女は困惑しつつも憤り、周囲の人々を怒鳴りつけました。ところが周りの人達は無視し続けます。それは彼女に全く気付いていないようで、彼女の声も届かないような、まるで彼女がそこに存在しないかのようです。彼女は困惑し、不安になりました。でも、何故か誰にも気付かれずにいることに少し安心感も覚えたのです。

あまりにも周りの人達が彼女を無視するので、不安になった彼女は、もしや自分は気付かないうちに死んでしまったのだろうかと、まず自分の状態を確かめようとしました。結果、彼女の身体は触れることも触られることもできず、鏡に映ることもありませんでした。彼女はこの状況に絶望し、泣き崩れます。

通り過ぎていく人や友人、家族でさえも、彼女の存在をまったく認識していないようです。彼女は彼らにひたすら声をかけますが、無駄であることを悟ります。それでも彼女は声をかけ続けました。何日も何日も。

日々、彼女は透明な存在として生活を送ります。彼女がカフェに入っても、注文しても、店員は彼女を見ることも声を聞くこともありません。彼女が公園でベンチに座っても、通り過ぎる人々は彼女を無視し続けます。彼女は人々の中にいながらも、完全に孤立してしまったのです。

彼女は自分がどうしてこんな事になってしまったのか、なぜ誰も彼女の存在に気付いてくれないのかを考えますが、答えは見つかりません。彼女は悔しさと絶望感に打ちひしがれます。彼女はもう一度声を出して叫びますが、誰も彼女を見ることはありません。

それから数年が経ちました。透明人間になった彼女は、周囲の人々からの存在感を完全に失いました。だって誰も彼女を探さないのです。彼女は自分の存在そのものに疑問を抱き始めました。自分が本当に存在しているのか、ただの幻影なのか分からなくなってしまったのです。

ある日、彼女は突然、自分が透明人間になった理由を理解しました。彼女はかつて自分が他の人々の存在を無視していたことを思い出しました。そしてこれが自分自身に対する罰なのだと悟ったのです。彼女は自分が他の人々を無視していた過去の自分に対して深い後悔と悔恨の念を抱きます。

彼女はもう一度声を出して叫びますが、やはり誰も彼女を見ることはありません。彼女は自分の存在を取り戻すことはできないまま、透明人間として永遠に孤独な存在として生き続けるのでした。

「どうして?どうして誰も私を見てくれないの?どうして私の言葉を聞いてくれないの?私はここにいるのに!どうして応えてくれないの?ねえ…お願い、誰か…誰か応えてよ…」
彼女の問いかけはただ虚しく響くだけでした。

声が聞こえたんだ

誰かの声が聞こえた気がして振り向いた。でも振り向いてはいけなかった。だって知らなかった。それに反応してはいけないだなんて知らなかったんだ…。

あの日、私はひとりで夜の公園を歩いていた。
何だか突然散歩したくなってしまって、近所の公園まできたのだ。月明かりが優しく照らす中、風が心地よく吹き抜けていた。たまにはこんな過ごし方があっても良いな。そんなふうに思っていた。

だが、その穏やかな夜景が一変する瞬間が訪れた。

誰かの声が聞こえた。
まるで耳元で囁かれるような、微かな声。私は驚きと共に、その声に引かれるように身体を向けた。

しかし、すぐに後悔の念が広がった。
誰もいなかったのだ。ではあの声は誰のもの?確かに聞こえたのに。ぞわりと、背筋を凍らせるような寒さが全身を包み込んだ。声の主が何者なのか、私には分からない。それでも、その声に反応してはいけなかったのだということだけはわかった。

逃げなくては。そう思い急ぎ走り出す。
でも声はまるで私のすぐ後ろにでもいるように話しかけてくる。
どうして!?
誰もいないのに!
何処から聞こえてくるんだ!?
解らない。解らないけど逃げなくては。だって声が、あの声が追いかけてくるんだ。
逃げなきゃ。
何処に?何処に逃げればいい?
誰か、誰か、助けて!

だが、こんな夜中の公園に誰もいるはずがなく、慌てふためく私の中に、ただ絶望が広がっていく。私は自分の足音が響く公園の中を必死に逃げ回った。その時、闇に包まれた木々やベンチが私にとって追い詰めてくる何者かに見えた。そんなはず無いのに。

汗が背中を伝い、息が切れ切れになってくる。体力も限界に近づいている。私は逃げることができる場所を探し続けた。

すると、目の前に明かりが灯った。
あの小さな喫茶店が、私に光を与えてくれるように思えた。私は力尽きそうになりながらもその扉を開けた。

だが…店内は静寂に包まれていた。まるで時間が止まったかのような様子だった。私は息を整えながら、店主に助けを求めようと声をかけた。

しかし、そこには店主の姿はなかった。
なぜ?
代わりと言えばいいのか、鏡面に映る私の姿が目に入った。驚きと恐怖が交錯する中、私の心臓は高鳴りを増していった。

どうして誰もいないの?
店の人は?

その時、鏡面の私の姿が微かに笑みを浮かべた。それはまるで、私を追い詰められていた声の主だったかのように思えた。そんなはずは無いのに。そんな事あるはず無いのに!

…逃げられない…。
何故かそう思ってしまった。解らない。どうして?
なぜ私が?ここは何処なの?




誰かの声が聞こえた気がして振り向いた。
でも振り向いてはいけなかった。
だって知らなかった。
それに反応してはいけないだなんて知らなかったんだ…。

私はこの喫茶店の奴隷となり、永遠にあの声の主と共に過ごすことになった。